
こんにちは!いまここです。
僕が小学生や中学生の頃、父の会社の旅行で毎年東京ドームに巨人戦を観に行くことが我が家の恒例行事でした。
小さい頃からジャイアンツを応援しているので、自然と僕も巨人ファンになりました。
その毎年行っていた東京ドームの外野の支柱にはユニホームを模したプレートが6枚掲げられています。

このプレートに記してある番号は、読売巨人軍の永久欠番となった背番号です。
今回は、永久欠番となった選手をまとめましたので紹介します。
読売巨人軍の永久欠番
永久欠番とは…
日本のプロ野球で、偉大な功績をあげた選手の栄誉を称える永久欠番ですが、
明確な基準は無いようです。
ですが、プロ野球界の永久欠番をみると、
生え抜きの選手である場合がほとんどです。
生え抜きの選手とは、入団してから他球団に移籍していない選手のことです。
そして、生え抜きの選手に加えて、
傾向では、世界記録を持っていたり、チームに多大な貢献をしたり、と言ったことが指標になってます。
6つの永久欠番
読売巨人軍は、次の6つが永久欠番になっています。
背番号1 王貞治(おう・さだはる)

制定日 | 1989年3月16日 |
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ポジション | 内野手 |
通算成績 |
打率 .301
本塁打 868
安打 2,786
打点 2,170
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タイトル・記録 |
首位打者 5回
本塁打王 15回
打点王 13回
最優秀選手 9回
三冠王 2回 など
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レギュラーシーズンでの通算ホームラン868本の世界記録は未だに破られていません。
正に「世界の王」ですね。
そんな王さんは、高校卒業後すぐにジャイアンツに入団していますが、
入団時は、ピッチャーとしての登録でした。
それもそのはず、早稲田実業時代には、甲子園でノーヒットノーランも達成しています。
もし2刀流で活躍したこと考えると恐ろしい選手になっていたかもしれませんね。
現在は福岡ソフトバンクホークス株式会社の取締役会長や、日本プロ野球名球会顧問を務めています。
背番号3 長嶋茂雄(ながしま・しげお)

制定日 | 1974年11月21日 |
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ポジション | 内野手 |
通算成績 |
打率 .305
本塁打 444
安打 2,471
打点 1,522
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タイトル・記録 |
首位打者 6回
本塁打王 2回
打点王 5回
最優秀選手 5回 など
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僕は、監督時代の長嶋さんしか知りませんが、
当時の映像を見ると、守備の際に見せる流れるようなスローイング、
バッティングではヘルメットが飛んでいってしまうほどのフルスイングが印象的です。
そして、テレビでたびたび流れる引退セレモニーでの「我が巨人軍は永久に不滅です」のスピーチはとても有名ですよね。
現役時代は、王さんとともに、巨人のセ・リーグ9年連続優勝(V9)、そして日本一に大きな貢献をされました。
背番号4 黒沢俊夫(くろさわ・としお)

制定日 | 1947年7月9日 |
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ポジション | 外野手 |
通算成績 |
打率 .259
本塁打 7
安打 459
打点 201
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タイトル・記録 |
なし
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僕は、今回ジャイアンツの永久欠番を調べるまで、黒沢選手を知りませんでした。
ジャイアンツ一筋の生え抜き選手ではありませんが、
関西大学から1936年に名古屋金鯱に入団し、その後44年からジャイアンツに入団しました。
1939年~1945年までが第二世界大戦ですので、戦争の時代を生き抜いてこられたプロ野球選手のお一人です。
終戦後、1946年からプロ野球が再開され、ジャイアンツを支えられました。
しかし、1947年に腸チフスを発病、33歳の若さでお亡くなりになっています。
背番号14 沢村栄治(さわむら・えいじ)

制定日 | 1947年7月9日 |
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ポジション | 投手 |
通算成績 |
勝利 63
負け 22
防御率 1.74
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タイトル・記録 |
最多勝利 2回
最多奪三振 2回
ノーヒットノーラン 3回
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プロ野球の創成期に巨人のエースとして活躍されました。
1936年に史上初のノーヒットノーランを達成されています。
背番号4の黒沢選手と同じく、戦争時代を生き抜いたプロ野球選手であり、
徴兵時の負傷により、1943年を最後に引退、
その翌年27歳の若さで戦死されています。
ちなみにシーズンで最も優れた先発完投型の本格派投手に授与される賞である「沢村栄治賞(沢村賞)」はこの方の功績を称えて設立されました。
背番号16 川上哲治(かわかみ・てつはる)

制定日 | 1965年1月18日 |
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ポジション | 内野手 |
通算成績 |
打率 .313
本塁打 181
安打 2,351
打点 1,319
勝利 11(投手として)
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タイトル・記録 |
首位打者 5回
本塁打王 2回
打点王 3回
最多安打 6回 など
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僕の場合、川上選手は、王選手、長嶋選手を率いて、巨人を9年連続のリーグ優勝に導いた監督というイメージが大きいです。
現役時代は、首位打者を5回も受賞するなど、「打撃の神様」としてジャイアンツで活躍されました。
NPB(日本野球機構)の記録を見ると、1951年のシーズンは424打席で三振を6回しかしておらず、.377という驚異的な打率を残しています。
背番号34 金田正一(かねだ・まさいち)

制定日 | 1970年4月2日 |
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ポジション | 投手 |
通算成績 |
勝利 400
負け 298
防御率 2.34
奪三振 4,490
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タイトル・記録 |
最優秀防御率 3回
最多勝利 3回
最多奪三振 10回
沢村賞 3回
ベストナイン 3回 など
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金田選手は何と言っても日本プロ野球歴代最多の通算400勝という記録ですね。
そしてこれまで15人しか達成していない完全試合を達成している一人でもあります。
金田選手は、現役生活のうち15年は国鉄(現ヤクルト)で活躍されました。
テレビでもたまに当時の映像が流れますが、1958年ジャイアンツとの開幕戦では、大物新人である長嶋選手を4打席連続で三振に仕留めている姿が印象的ですね。
引退後はロッテオリオンズの監督を務め、1974年に日本一に輝いています。
また日本プロ野球名球会の初代会長を務められました。
永久欠番って6人居たんだ〜
黒沢俊夫さんって知らなかったです
赤い空様
思いかけず、コメントありがとうございます!
ブログにも書きましたが、僕も調べて初めて知りました。
大変な時代にプロ野球を支えて来られた方ということがよく分かりました。